オランダ

オランダってどんな国?オランダで生活していると、駅名などに公爵の名前が使われていたり、古くから残っている建築物があったりと、遠い昔に思いをはせてしまうことがあります。

オランダでの生活、今の情報だけを知っていれば、充分に生活はできるのだけど、これを機会に、オランダ歴史をさかのぼってみたら、もっと今を楽しめるかも?ふとした名前に新しい発見があるかも?

ちょっとオランダ歴史をのぞいてみましょう!

sponsoredlink

オランダの歴史

紀元前、今のオランダが位置している地域は、ローマ帝国の支配下にありました。その後、5世紀頃にローマ帝国が滅び、オランダはフランク王国の一部となりました。9世紀にはカール大帝の時代へ。オランダは、マーストリヒトやユトレヒト等の都市を普及の拠点とし、キリスト教を信仰するようになりました。

オランダ ダム広場にある王宮

中世のオランダは、多くの自治的な都市から成り立っており、この頃、アムステルダムは貿易港として大きく発展しました。アムステルダムは、アムステル川に築かれたダムという意味で、元々はアムステル川の河口の小さな漁村だったのです。(現在王宮(右写真)が建っているところに、ダムがありました)

16世紀半ばに、オランダで広まっていた宗教改革運動が、当時ハプスブルグ家との婚姻関係によってオランダの地を支配していたスペイン帝国に弾圧されました。1568年、オラニエ公ヴィレムらは、オランダ北部で抵抗独立運動を起こし、これが、スペインとの「80年戦争」始まりとなり、その結果、ウェストファリア講和条約によって、1648年にオランダ共和国(ホーラント、ゼーラント、ユトレヒト、フリースラン ト、フローニンゲン、オーフェーアイセルおよびヘルダーランドの七州連)の独立が認められました。

sponsoredlink

独立運動中も、1602年に、世界初の株式会社「オランダ東インド会社(VOC)」を設立するなど、いわゆる「黄金時代」と呼ばれる全盛期を迎えていました。東インド会社は、セイロン、中国、インド、日本、タイとの貿易を行い、1622年に設立された西インド会社は、アフリカやアメリカとの貿易により繁栄し、1625年から1664年まで、現在のニューヨークである、ニューアムステルダムを統治しました。 しかし、17世紀後半からは、イギリス等との競争に敗れて衰退してしまいました。

1795年に、ナポレオン統治下のフランス革命軍によって併合され、デン・ハーグに首都機能を有するバタヴィア共和国が設立されました。その後、1806年に、ナポレオンは弟のルイ・ナポレオンを、当時のホラント国と呼ばれる国の国王に就任させ、1810年、フランスは再びオランダ全土を併合して、ルイ・ナポレオンはアムステルダムを首都としました。

1813年、フランス帝政が崩壊し、イギリスに亡命していたオラニエ公ウィレム・フレデリックが帰国し、アムステルダムを首都として残したまま、政府ははデン・ハーグに移されました。しかし、新憲法上で定められて首都は、憲法成立の前年に国王の即位式が行われたアムステルダムのままとなりました。そのため、現在でも政府はデン・ハーグにありながら、首都はアムステルダムということになっているのです。

新しく独立した国家は、以前の共和制ではなく、フランスから導入した単一国家構造が用いられることになりました。そして、1815年、現在のベルギー北部と南方オランダを含むネーデルランド王国として独立。ウィレム・フレデリックが、 ウィレム一世として国王に就きました。その後、言語や宗教の違いなどから、1839年にベルギーが独立、1867年にルクセンブルグが独立し、現在のオランダとなりました。

ウィレム一世は、その後二世、三世と引き継がれましたが、1890年には男子継承も終わりを迎え、王女ウィルヘルミナ(1880−1962)が王位に就き女王となりました。ウィルヘルミナが18歳になり、君主としての任務を行えるようになる1898年まで、ウィルヘルミナ女王の母、エマ王妃が摂政を務めました。

オランダ アムステルダム中央駅

19世紀後半には、都市人口が大幅に増加し、1876年には北海運河、1885年には国立ミュージアム、1888年にはコンセルトヘボウ、1889年には中央駅が建設されました。1924年にはトラムが登場。1928年にはオリンピックが開催。

第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間、オランダは中立を選択していましたが、1940年5月15日、ドイツが中立条約を無視してアムステルダムを占領。オランダは大きな痛手を受けました。ウィルヘルミナ女王と政府は、最高司令官であったヴィンケルマンを国家責任者としてオランダに残し、ロンドンへと亡命しましたが、占領軍への抵抗の象徴として大きな役割を果たしました。ドイツによる占領が続いた5年間の間に、約8万人のユダヤ人が追放されました。そして、1945年5月5日に、オランダは連合軍(カナダ軍)によって開放されました。オランダ領東インド(インドネシア)では、日本軍の占領により、オランダ人やオランダ系インドネシア人が、強制収容所生活を強いられたという事実も・・・。

オランダは、戦後は中立な立場は捨て、1948年ベルギーとルクセンブルグと、ベネルクス関税同盟を結び、1949年にNATO(北大西洋条約機構)に、1957年には、EEC(欧州経済共同体)の設立に加わりました。そして、同じくオランダが創立メンバーである、EEC(欧州石炭鉄鋼共同体)とEAEC(欧州原子力共同体)の3共同体が、1967年に整備されて、EC(欧州共同体)と合流されました。

オランダ フォンデル公園

1976年にはアムステルダムに地下鉄が開業しました。アムステルダム市の麻薬に対する寛大な政策により、ピッピーの楽園と呼ばれ、1960年代後半からダム広場や、フォンデル公園はピッピー達のキャンプ場と化し、開放的で自由な空気に包まれていました。1969年3月25日―31日にアムステルダムのヒルトンホテルで行われたイベント「BED-IN FOR PEACE」での、ジョン・レノンとオノ・ヨーコとのインタビューは有名です。現在でも「コーヒーショップ」と言われるお店では、マリファナなどのソフトドラッグは合法に販売されています。ちなみに、ホントにコーヒーが飲みたい場合はカフェに行きましょう。

1991年12月には、オランダを議長国とする、EC首脳会議が開催され、ECの政策や通貨統合が合意に達しました。1992年2月7日には、先の内容を含む「マーストリヒト条約」に、EC各国が署名し、1992年12月5日に、オランダは、この条約の批准を完了し、欧州同盟条約(マーストリヒト条約)は1993年より発効され、EU(欧州連合)がスタートしました。

1999年1月1日、加盟国11カ国(ベルギー、ドイツ、スペイン、フランス、アイルランド、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ、オーストリア、ポルトガル、フィンランド)の銀行間決済が欧州通貨「ユーロ」でできるようになり、2002年1月1日からは、現金通貨としてユーロの流通が始まりました。

ページTOPに戻る▲
sponsoredlink

copyright©オランダで子育て オランダ生活案内 オランダ旅行情報 オランダ観光ガイド All Rights Reserverd.